●水底にかくされた●



十数年……いや、もう四半世紀にもなるじゃろうか。
ひょんなことから、わしの人生の半分ほどを過ごした、あの忘れ難いかの地に、
こうして再び足を踏み入れることになりよった。
おぼろになりかける記憶を頼りに周囲を見渡していくが、
国土開発と銘打った森林伐採により、刺すような日差しはあの頃より地面に大きな模様を描き。
降りしきるスコールにより、どこもかしこもぬかるんでいたはずの地面には、
日差しが差し込むようになったせいか、所々、乾いた砂地のようなものが見てとれるようになっておった。



整備されたとはいえ、未だ大小の砂利が残る道から、下草の生い茂る脇道へと、何かに取りつかれたように足を運んで行く。
そして周囲を振り返って、「あぁ……」と、思わず感嘆のため息がこぼれおった。
周囲の木々の成長を推し量り、迫りくる山並みの風景と蛇行する川の流れに目をとめて、
はるか昔、みなで野営していたのはここだったと確信したのじゃ。



あの日……奇妙な音をたてながら旋回する飛行機を見たが最後、
山の向こうに消えたそこから大きな地響きと共に黒煙が上がりおった。
内戦続くこの地において、国営だろうが民間だろうが、安心して飛べるという確証はない。
運悪くミサイル弾やら迫撃砲やらにぶち当たった飛行機は、数知れず。
そんなわけで、あぁまたか、と思ったが、
何か金めのものはないかと漁りに行くあたり、悲しいゲリラの身の上というわけじゃな。



立ちのぼる黒煙と、オイルの混じったきな臭さを頼りに近寄ってみると、
事切れた母親らしい女の腕に抱かれた幼子が、一心に泣いておった。
「……ふむ。どうやら日本人のようじゃの」
「……そうですね」
見たところ、1才になるかならないかというところの幼子は、真っ黒な髪に、同じく漆黒と言えるような黒い瞳をきらめかせ。
拳を振り上げ、真っ赤な顔をして泣いておる。
その勢いから察するに、母親の腕に守られたのか、たいしたケガもないようじゃった。
……が、安定した機内から生い茂る密林の中へと、目まぐるしく環境が変わったせいか、その泣き声は次第に弱くなりおった。
「このまま見捨てておけば、数時間ともつまいて」
「…………」



黙ったまま立ち尽くしていた海原が、まだきな臭いバラバラの機体に弾かれたように近づき、幼子を抱き上げる。
その服は所々が焼け焦げておったが、首に巻かれたよだれかけの白さが、やけに際立ち。
まるで目に刺さるようじゃった。
「リョウ……と読めるかの。母親の手縫いのようじゃし、この坊の名前かの」
「……………」
人肌の温みに包まれ安心したのか、泣きわめいていた坊がきょとんと大きな黒い目をしばたかせ、海原めをじっと見つめる。
漆黒の髪に、同じく真っ黒の瞳をもつ二人は、そんなはずはないのに、どこか父子にも見えるようじゃった。



そしてしばし逡巡したのち、海原のやつは、その名の入ったよだれかけ共々、
身につけていた服のすべてを剥ぎ取り、川へと放って棄ておった。
「……この地で生きていくなら、過去はいりませんからね」
「いつもなら見捨てるはずのお前さんがそこまでするのは、この坊が日本人だから、かな?」
「………………」
はるか昔に捨ててきた故国を思い出したのか、その意思の強さを誇る太い眉がきゅっと寄せられる。
「別に……。国軍のやつらと遊ぶには、一人でも多い方がいいですからね。
もう数年もすりゃ、猫の手くらいにはなるでしょう」
「ふむ……」



つっけんどんな口ぶりとは裏腹に、生傷の絶えない太くたくましい腕に、
幼子を愛おしげに抱きとる姿に、ふっと笑みがこぼれる。
そして身ぐるみ剥がれた当の坊も、海原めを気に入ったと見えて、
その太い首っ玉にもみじのような小さな手を、しっかりと回しておった。
ヤツの心の内はわからないが、このところ何かと自棄になりがちな海原が、これで少しは落ち着くかの、と、
しだいに遠ざかる背中を、目を細めて見送った。



さわさわと風になぶられる木々の梢を仰ぎつつ、
小さなせせらぎを頼りに足を運べば……案の定、“あの”川辺へとたどり着いた。
今はかなり小さな流れとなったが、昔、上流の方は山からの涌き水が一カ所に集まり、
どうどうと音を立てて流れていたものじゃ。



この流れの上流、あの丘のあたりで坊を……リョウと名付けた幼子を見つけたのじゃったな……。
「教授?俺の家族って、いるのかな」
もの心ついた頃に問われた、初めての問い掛け。
屈強の男どもと暮らすことに何等疑問を感じずに育った坊も、
密林の奥深くに暮らす、小さな村で初めて見た“家族”というものに、幼き坊の心が揺れ動いたか。
「そうじゃなぁ……。ここに暮らすみなが、お前さんの家族じゃろうよ」
理解したのかしきれなかったか、それは定かではないが、「ふぅん……」とひとつ、言葉をこぼして。
坊はそれきり、その問い掛けを口にすることはなかったの。



小さな魚がぴしゃりと跳ねて、ふいに現実の世界へと戻される。
足元を流れる、今は緩やかな川の流れの、その水底に。
リョウと名付けた坊の生い立ちが、眠っておる。
坊が欲した、母親の温もりが眠っておる……。
長い年月を重ね、何も残ってはいないじゃろうが、その隠された生い立ちを……記憶にもない、両親の死に様を。
はたして、告げてやるべきなのじゃろうか……。
海原亡き後、その生い立ちの秘密を知っておるのは、わし一人じゃということが、心に重く、のしかかる。
わしが生きている内に、伝えるべきなのかどうか……やれやれ、歳老いてなお、手間をかけさせるヤツじゃわい。



ふぅと苦いため息をついた時、南国特有の、ねっとりとした風に頬をなぶられて、舞い上がった砂に、しばし目をつむる。
……と、風に揺れる葉末の中に、幼き坊と海原が……みなが笑いあう声が、聞こえたような気がした。
「あやつは裏表のない、真っ直ぐな子に育ちよった。
それに……今はもう、それ以上の温もりを知っておるし……の」
幼い赤子のように、何が欲しいと駄々をこねる歳でもないし、今はそれ以上に欲し、愛し……守りたい、大切な者が出来た。
未来(さき)のことなぞ何ひとつ考えず、無鉄砲に生きてきた男が、今は“彼女”との未来を……永遠を、望んでおる。



「ふぉっふぉっふぉっ……変われば変わるものじゃて」
そんな男に、いまさら過去を振り返ることもあるまい。
お前さんの隠された生い立ちは……その身をていして守ってくれた、母親のことは。
この老いぼれが、墓の中まで持っていくとしようかの……。
風が吹き、木々の緑が一層そのにおいを増してくる。
せめてもの土産がわりにと、強い草いきれを胸深く吸い込んだ。




END    2015.3.16