●chocolate trap●




「たぁらいまぁ~」

玄関の扉を開けた瞬間、出迎えたのは、ふわりと香る甘い匂い。
靴を脱ぎ、廊下を進む程にその香りは強くなる。
甘い匂い中に走る、その独特の苦さと香ばしさ。
その特長的な香りの正体を思い描いて、"あぁ、そうか……"と苦笑した。



気付いてなかったワケじゃないが、毎日がドタバタ。
知らぬ内に反感もって向かってくるヤツらと遊んでやらなきゃならんのだから、
毎日が平穏無事とは言い難い。
そんなワケで、菓子メーカーの陰謀で始まった、その日。
日本中の女の子が一喜一憂、街中が甘い匂いに包まれる"その日"が明日に迫っているコトを、
見事なまでに忘れてたぜ。



「あ、リョウ。お帰りなさい。コーヒー飲むでしょ?今、淹れるわねっ」
リビングに足を踏み入れるや否や、ひょっこりと顔を出した香がそう言って、
すぐにパタパタと足音が遠ざかる。
何だかやけにサービスがいいのは、キッチンに足を踏み入れるなという牽制か。
ソファにドカリと座り、いつものとおり背あての隙間から取り出した愛読書を片手にくつろげば、
程なくして、ふたつのカップを手にした香がやってきた。
「……これまた、えらく濃ゆいんでない?」
湯気をたてるカップからは、さすがの俺でも、瞬時眉をひそめちまう程の濃い匂いがした。



「……そっ、そんなコトないわよ。さぁ、どうぞっ?!」
ずずいとすすめるカップを手にし、一口、口に含んで、"ま、いっか"と苦笑する。
そのクセ、コーヒーはブラックも苦手という香は、キッチンで自分好みに調整してきたであろうハズなのに、
一口すすったとたん、しかめ顔。
おもむろに立ち上がるや否や、キッチンから持ち出した砂糖のスティックを1本、2本。
そしてミルクピッチャーを惜し気もなく傾け、流れるような曲線どころか、
カップの淵からあふれるんじゃないかと思う程、注ぎ込んだ。
「……それ。コーヒーっつーのか?」
もはやカフェ・オレと化したシロモノを前に、思わず口にした疑問だったが、さすがの香も微妙な表情。
とはいえ、それを肯定するのも癪らしく。
「いいのよ、これでっ!!」
と、ミルクですっかり温くなった"そいつ"を、ぐびぐびと飲み干した。



コーヒーの濃い香りでチョコレートの匂いを消そうって魂胆なんだろうが、すべてはお見通し。
まだまだ甘いな、香くん。
そのクセ、その精一杯な姿がほほえましくて、それと知られぬようにそっと苦笑した。
一方の香はといえば、小さく眉をしかめ、周囲にくんくんと鼻を鳴らす様は、
まるでまわりに敵がいないかと警戒して怯える子犬のようで。
ぷぷぷ……面白れぇ。(笑)
「……そんで?今日の夕食は?」
さりげなさを装って話しをそらせば、ふいに話し掛けられた香がびくんと大きな目ン玉をひんむいた。
「なっ……何っ?!」
「……メシ。今日は何?」
「あ、ご飯ね。えーっとぉ……そうねぇ……」



心ここにあらずの口ぶりの中、まだくんくんと鼻を鳴らして周囲を探る。
そして納得がいかなかったのか、「はぁ」と小さく、ため息ついて。
「……お鍋、ね。そう、チゲ鍋にしましょ」
と、胸の前で合わせた手をぽんと叩いた。
やけに濃ゆいコーヒーだけじゃ心もとないのか、続いてチゲ鍋ときやがった。
日頃、「チゲ鍋かぁ……キムチはあっためると匂いがね~」なんて言ってたのは、ドコへやら。
臭いモノには蓋をしろじゃないが、匂いは更なる匂いで消せというトコロなんだろ。
まったく、しょうのないヤツだ。



「……お前、部屋に匂いがつくとか言ってただろ」
「……たっ、たまにはいいじゃない!!毎日寒いし、キムチでぽかぽか。身体の中からあったか~く、ね」
「………」
俺としちゃぁンなモン食わずとも、香と二人、ベッドでしっぽり。
身体の真ん中からヤケドしそうに熱くなる方がいいんだが……
そんなコト言って今、機嫌を損ねちゃぁ、せっかくの貰えるモンが貰えなくなっちまう。
ここはひとつ、やたら滅多なコトは言わない方が、身のためか。



「……ま、たまにはいいかもな」
「そっ、そうよねっ!!そうと決まれば、リョウっ!!お鍋の具材、買って来て?」
「んぁ~?俺が?今、帰ってきたばかりだぜ?」
「しょうがないじゃない……ウチの冷蔵庫、野菜だけなんだもの」
「ぐっ、それは……」
「鶏のひき肉でつくねにしてもいいし、豚バラ肉でもいいし。肝心のキムチも無いから、よろしくねっ」
確かに日々貧窮の冴羽家の冷蔵庫に、肉が常駐してるなんてぇコトは稀な話しで。
せっかくの熱々チゲ鍋が野菜だけだなんてのも、納得出来ないワケなんだが……。
だからって、今さっき帰ったばかりの俺が、何だってまた買い出しに出掛けなきゃなんねぇんだ?!
それでなくても、今日は北風が一段と冷てぇんだよっ!!(爆)



「あのなぁ……」
と、さすがの俺も、文句を言いかけ。
ふと視線を落としたソファの足元に、リボンの切れ端が落ちてるのが目に留まった。
小さな切れっ端なのに、蛍光灯の下でも、やけにきれいな光沢を放つそれ。
チョコの匂いを隠そうとしたり、きれいなリボンで包装したり。
時間に不規則な俺の合間をぬってそいつをやり遂げるのは、さぞかし大変だったろう。
その努力のすべてが俺のためと思ったら、ふいに顔がにやけていくのを止められなくて。



「……ちっ、しょうがねぇなぁ。クソ寒い中、出掛けてくんだ。高い肉買って来ても、文句言うなよ?」
そう言って、下手ににやける顔を隠すように、カップに残ったやけに濃いコーヒーを飲み干して、
のっそりと立ち上がる。
「あ……ありがとう、リョウ。いってらっしゃい」
予想外に反抗もしない俺に拍子抜けたのか、幾分戸惑い気味の香の頭をぽんと叩いて。
そのクセ、このまま飼い馴らされてるように思われるのも、ちょっと癪で。
茶色い髪をくるくると弄びながら、その貝殻みたいに小さな耳にそっと囁く。



「……その分、期待してっからな」
とたん、ぼんと真っ赤に熱を帯びた茹でダコが出来上がり、そのわたわたぶりにくっくと笑いがとまらない。
「ぷぷ……っ。ほんじゃ、いってきま~す」
先程脱ぎ捨てたばかりのブルゾンを引っかけ、背中越しに片手をひらひらとあげながら玄関を飛び出せば、
外は先程より、一段と冷たさを増した北風が吹き荒れていた。



その工程のドコまで進んでるのかは定かじゃないが、
冷蔵庫に冷やしたそいつをラッピングしようとしてたってトコロか。
このクソ寒い中、子供のお使いよろしく、つらつらと買い物するなんざやってられんが。
香に慌てふためくことのなく、ゆっくり"そいつ"を仕上げる時間をやりたくて。
「……どれ。少しは時間稼ぎしてやっかね」
とりあえず、目当ての買い物を終えたら、タコんトコにでもしけこむか、と考えて。
周囲のいぶかしむ視線をものともせず、くすくすと笑いながら歩き出した。




END     2012.2.13