●I need you,but you don’t need●



眠りは浅く、真夜中に目が覚めることも珍しくない。

車が通り過ぎていく音。
闇の中、梟のように目を凝らす。ただ漆黒が視界を塗りつぶす。
喉が渇いて香の眠るベッドを抜け出した。



手探りで明かりも点けずに冷蔵庫からボトルを取り出した。
漏れる室内灯が炎のように俺の手元を照らす。ボトルを掴み取り、ドアを軽い勢いをつけて押した。ぱたりと音を立てて閉じる。
喉を通る水は熱を奪いながら胃に流れ落ちていく。スイッチを入れたテレビのブラウン管には古い映画が映し出される。
父と母とひとりの子供の何気ない日常、ささやかな幸せが白黒の世界に展開する。多分これはありふれた風景で、だからこそ胸を締めつける。
ありふれた、けれど俺にとっては過去も未来もありえないだろう、ブラウン管の中のでき事は闇に慣れた目にやけに眩しかった。
とっくに水のボトルは空になっていたけれど、画面を消し去ってしまうことができずに、ソファに腰を下ろした。
どのくらいそうしていたのだろうか。
「・・・・・・どうしたの?」
「あぁ、起しちまったか?」
きちんとパジャマを着込んでリビングに迷い込んできた。明かりも着けずに画面に見入っている俺を見つめる香は真摯で、やけに幼く見える。
「あ、この映画見たことある」
ソファをぽんぽんと叩いて示すと、少しはにかんだ笑みを浮かべて隣に座ってくる。ソファが軽く沈む。二人の間はほんの一〇センチ程度か。ぴったりと寄り添えない香の躊躇いと、引き寄せることのできない俺の躊躇いがこの距離を生む。
けれど体温はじんわりと伝わって、酷く落ち着いた気持ちにさせる。
香の存在を意識しながら見る映画は一層現実感から遠ざかる。
ブラウン管の中では小さな事件と解決が繰り返される。
笑いの絶えない風景が映し出される。
この国に住むほとんどの人間が共感を覚えるだろう映像に感慨はない。
まるで夢の中のでき事だ。こんな夢を見たこともないのだけれど。
馴染みのない、生涯触れることのできない幸せがガラスケースの中に陳列される。俺はただそれを物欲しげに見つめているだけだ。
とす、と肩に寄り掛かってくる軽い重みに、隣を見ると、眠気に耐えかねたのか香が俺に寄りかかるようにして眠っている。二人の距離がゼロになる。右肩に乗せられた香の髪からはシャンプーの匂いがした。
清潔で透明な香りがする。いつもお前が俺を包もうとする匂いだ。
そっと腕を伸ばしてその肩を抱いた。小さな肩をすっぽりと手に収める。女だけに許された柔らかい感触とその頼りなさに、細心の注意を払っている自分に気づく。
手の中の肩は握りつぶせそうに脆い。羽を持った生き物を閉じ込めるように密やかに触れた。



エンドロールが被さって流れていく。



香を見下ろすと寝息と同じく睫が規則正しく揺れている。俺はテレビの電源を落とした。静けさが暗闇に満ちる。
香の寝息だけが聞こえる。余りにゆっくりと呼吸をするから、途切れてしまったのではないか、と耳を欹てる。
耳で手繰り寄せながら、暗闇に慣れた目で香を見れば、その頬は滑らかに整っていた。
僅かに香の肩に触れた指に力がこもる。
「・・・・・・ん」
俺は悪戯が見つかった子供のように香の肩から手を離した。
「あたし・・・・・・寝ちゃってた?」
まだぼんやりとした香が肩から頭を起す。
映画は終わってしまった。昔観た映画を、お前は観なくてよかったのか。
懐かしいと、この映画が好きだったと、お前は言うんじゃないか。
俺がいなかった頃のお前を懐かしむんじゃないか。
再び距離が生まれるのが怖くて肩から起きかけた香の頭を自分の胸に押しつけた。
「りょ・・・・・・」
強引にゼロにした距離に香が戸惑う。反射的に押し退けようとする、その手が妙に悲しくて、今度は両腕で香の身体を抱きしめた。
香の吐息を感じる。速くなった香の鼓動が聞えてくる。俺とは違うリズムを刻む。力を緩めると、香は俺を見上げた。
「どうしたの・・・・・・?」
どうもしない、といつものように答えかけるが、喉に痰が絡まったようにうまく出てこない。香の茶色い瞳は室内の暗がりの中で青く鈍く光っている。
「変な顔しないでよ」
それ以上探られるのが嫌で、怪訝そうな香の唇を唇で封じた。触れる唇はふんわりと柔らかく、乾いてひんやりとしていた。
触れるだけのキスに目を閉じた香の睫がちりちりと揺れる。
深くくちづけた。香の唾液は、飴を舐めていたように甘い。チョコレートのように軟らかく余韻を孕んで融けて消えていく甘さがもっと欲しくて、角度を変えて何度も口腔を探った。香が苦しげに息を継ぐ。その合間さえ与えないように香の頬を両手で挟み込んだ。
「ん・・・・・・」
とろりとした目で香が身体の力を抜く。その重さが心地よい。もっと預けて欲しい。抱いてしまおうか。一時の快楽に過ぎないとわかっていても、触れ合う喜びは麻薬のようで、何度も求めたくなる。



俺は底の抜けたポリバケツみたいなもんで、お前がいくら水を注いでくれてもいっぱいにならない。役にも立たず、ただそこにあるだけの薄汚れた穴だらけのごみ箱だ。
お前がいても俺はそこから抜け出せない。



香の身体をソファにゆっくりと倒した。後頭部に当てた左手はそのままで、そこに香の頭の重みが掛かってくる。
何にも換えがたいお前の重さ。
わき腹をパジャマの下から撫で上げると、香が恥ずかしげにパジャマの上から俺の手を押さえた。
「手、どけろよ・・・・・・」
濡れた唇を噛みながらこちらを見上げる、香の頬が赤く染まる。
「だって・・・・・・恥ずかしい・・・」
「・・・・・・恥ずかしくないよ」
香の手をかわしながら指を滑らせる。乳房を手の平で包むと香は瞼をぎゅっと閉じた。目尻が薄っすらと染まっているのが闇の中でもわかる。
心臓の上の膨らみを愛撫した。それを視覚でも堪能したくて、後頭部から左手を引き抜いてパジャマのボタンを外した。開いた身ごろから白い裸身が浮かび上がる。その乳房を俺の無骨な手が撫でまわしている。きっと淫猥な構図。そう思うだけで、下腹が熱くなる。欲望が突き上げてくる。
男ってのは浅ましい生き物だ。
すぐ勃起して主張する。
懇願して涙を流す。



顔を被おうとして翳された手を捕らえてきつく指を絡ませた。指と指をしっかりと絡ませて強く握る。
その頬に自分の頬を擦り付けた。
「りょ・・・、おも・・・・・・いって・・・ば・・・」
上半身を香に乗せかける。ぴったりと重なり合う。抗議を聞かなかった事にして、更にぴったりと身体を合わせる。足を絡ませれば、香の太腿に欲望がぶつかる。
その膨れ上がった欲望にびくりとする香を体重で押さえ込む。
蔦のように絡まって、欲求を押しつける。苦しげな香に構わず、できる限り近づくために香の上にのしかかった。



こうでもしないとお前が消えてしまう。
いつしか俺の傍からいなくなってしまう。
こうして触れ合う感触だけは確かで、ただそれだけに頼り切ってしまう俺は人見知りの激しい子供のようで、いつもお前に甘えてばかりいる。
お前に許されたいと我儘を繰り返す。



ふぅ、と深く息を吐いて、香が俺の背に手を回してくる。しなやかなその手は俺の背中を宥めるように撫でる。唐突に欲望に駆られる俺を引きとめるようにやさしく円を描く。その円は香そのもののように美しい曲線だ。背中から胃の方までダイレクトに伝わってくる。
払いのけられるのを恐れるかのように遠慮した香の手は暖かさを分け与えるようにゆっくりと動く。
宥めるようなその温かさが切なくて、もう一度強く頬を摺り寄せた。
いつまでもこうして抱き合っていたい。二つの身体に分かれていることが辛いんだ。絡めた指に力をこめる。思いを込めて強く握りしめる。永遠に続く契約を交わすように。



香の体を抱きしめたままソファの背もたれに背中をもたれた。香が俺の膝の上に座ったような形になる。膝に掛かる香の重み。香が俺の傍にいる重み。
今度は香が俺を見上げた。香がそっと睫を伏せて唇を寄せてくる。どちらからともなく唇を吸い合う。
上唇の形を尖らせた舌でなぞり、下唇を甘噛みする。香の唇からは果汁が滴りそうだ。唇の裏側の粘膜を舌で刺激すると、香の背筋が反り返ろうとする。それを背中に回した手で支えて、香の口内を隅々まで丹念に探る。
駄目だ。
こんなんじゃあまりに遠すぎる。
お前の中に俺を突っ込んで、吐き出したいんだ、何もかも。
お前はいつもこの時だけは決して俺を責めず、俺を包み込む。
服を脱いで、足を開いて、俺を迎え入れる。
それが歯痒くもある。



シャツを脱いで、香の衣服を取り去って、きつく抱き合った。直接触れ合う皮膚の感触が熱を生む。
脇のラインからウエストへと両手を往復させる。俺の肩に掴まった香の手に、そのたびに力がこもる。
その手を尻の割れ目から下へと潜り込ませていく。ちゅ、と濡れた感触が伝わってきた。
「・・・・・・や、やだっ!ちょっと待って!」
香が身を捩じらせて逃げようとする。俺は手を止めた。
やっぱり逃げるのか。
俺の傍からいなくなるのか。
お前には俺は必要ないんだ。
俺がお前を必要として、お前の情けに縋ってるんだ。
「・・・・・・遼、あのね」
判決を言い渡される罪人のように香の言葉を待つ。俺を拒んだっていいんだ。お前にはその権利が十分にある。
俺を突き放しても、本当はいいんだ。俺がお前のやさしさにつけ込んでいるのだから。
「さっき、起きた時、遼が傍にいなかったから」
香は一端そこで言葉を区切る。それから、「・・・・・・寂しかった」と、拗ねたように小さく囁いた。



不安なんだ。



いつかお前がどこかに行ってしまいそうで、この幸せがどこかに逃げていきそうで。
抱きしめてお前の匂いを嗅ぐたびに、後悔ばかりする。
身に余るほどの幸福をお前が俺に与えてくれるから、誰かが天罰を下すんじゃないか。
神なんてこの世にはいない。いないってわかってるんだ。
それでも誰かが、俺からお前を奪っていきそうで不安になるんだ。
もしも、神なんて者がいるのなら、どんな責め苦も喜んで受けるから、一つだけ願いを叶えて欲しい。その他は何も望まない。だから約束して欲しい。
神に祈ったことなんかない。神がいるなんて思うことが馬鹿らしいとも感じてる。そんなに世界はうまくできてないだろう。万能の神がいるなんて、そりゃぁ人間の最大の妄想に過ぎない。
都合のいいことを抜かしてるなんて、百も承知だ。
けれど、お願いだから、祈るから、どうか香を。
どうか。
どうかこの存在を俺の手から奪わないで。
ただそれだけを祈るから。
そのためなら何を失ってもいいから。
目も、耳も、口も、鼻も、舌も、声も、指も、腕も、足も、心臓も、お前がいなければ欠けているのと同じなんだ。
あっても何も感じない。
お前がいて、俺の傍で笑っていて、初めて細胞が機能し始めるんだ。
お前が俺の傍から消えて、それでも生きているのなら、こんな身体があってもしょうがないんだ。



香は俺の上に跨ったまま、俺を受け入れる。
先端が包まれただけで射精してしまいそうになる。包まれる感触だけで達してしまいそうだ。
ぎち、と締めつける肉の感触が熱い。ゆっくり負担にならないように香の腰を落としていく。
両手でその腰を支え、じわじわと、ゆっくり時間をかけてすべてを飲み込ませる。
香の喉が小さく上下する。
きつく抱きしめた。
生殖の行為は快楽だけに留まらず、この時だけは少し不安を取り除いてくれる。
文字通り繋がって、ぴったりと皮膚を合わせている。このまま本当にひとつになってしまえばいい。神話の女神がいたら、この瞬間に石にして欲しい。一つの石になりたい。
いつまでもお前と一つになっていたい。



少しずつ動き出す。
単純な摩擦の繰り返しがとてつもない快楽をくれる。
座って向き合う形の交合は、より深くまで抉って、香は根元まで俺を絞り上げる。きつい締めつけが痛いくらいだ。
「お前のいいように動けよ・・・・・・」
俺を飲み込んで、俺の上で腰を振ってくれ。
香の乳房が揺れる。その乳首を口に含んで舌で味わう。
「りょ・・・お・・・・・・!あぁ・・・!」
香が高い声を上げる。哀しげにも聞える掠れた声。
悲しませたいわけじゃないんだ。
けれど、やさしくすることも大切にすることも、俺にはできやしない。
できるのは悲しませることだけ。



濁った波に押し流されて、快楽という名の激流は俺から思考を奪っていく。
ただ感情だけが削られて堅い芯が露になる。



こんなに弱くなった。
お前を得てから俺は弱くなった。
お前を守るためにもっと強くなりたいのに、どんどん錆びるように弱くなっていく。
自分の感情にさえ振り回される。
悪い想像が止まないんだ。
こんなに弱い自分は知らない。



香の唇が赤く充血している。
唇から忙しなく吐き出される喘ぎ声と乱れた息。
俺の上で踊るように揺れる香は百合のようだ。この世で一番きれいだ。きれいすぎて、目に沁みる。
このまま乱れて、激しく動いて、一瞬の快楽が永遠に引き延ばされれば、この不安も無くなるのだろうか。
いつもより深くまで飲み込ませて、百合の中で達した。



ぐったりとして、そのまま後ろに倒れてしまいそうな香の身体を抱き寄せた。
手折れば萎れるだろう。
それでも欲しいんだ。
お前だけを。



けれど、お前のいるべき場所はここじゃない。
本当はお前の幸せに俺は必要じゃないんだ。そう思うのに、こうしてお前に包まれている。卑怯者と、臆病者と罵りながら、その愚かさに酔っている。



「・・・・・・ね」
香が耳元で囁く。
「もうちょっと、こうしてて・・・・・・」
もうちょっとぴったりとくっ付いて、ふたりの間に微塵も隙間を作らないでいたい。
お前は図らずに俺の願いを口にする。錯覚する。ひょっとしたらお前も同じように俺を求めているのではないかと。
高い塔の上に立っているような多幸感。一歩足を踏み外せば舌までまっ逆さまに落ちていくだろう。



ブラウン管にはもう何も映らない。
汗の引いた身体が冷えてくる。
俺は香の手を握った。少し冷たくなった香の指に指を絡ませる。
その手は確かにここにあるのに、やっぱり消えてしまいそうで、繋がった一部分すら曖昧になる。柔らかい膣の襞の圧迫も幻のようだ。
「・・・・・・遼」
最初から出会わなければ良かったのかもしれない。
きっとお前にとって俺に出会ったことは最大の不運で、俺にとっては最大の奇跡なんだ。シーソーみたいにお前が俺の傍で不似合いな生活に慣れていく程に、俺は幸せになっていく。
この手を離すことができない。
与えられなければ知らなかった幸福の味を、知ってしまったら最後もうそれ無しでは生きられない。



お前無しじゃぁ、生きられないんだよ。



俺の名前を呼ぶお前の白い指に絡ませた指に力を込めた。
伝えたいことはたくさん、それこそ山のようにあるはずだけど、伝えたら、お前が消えてしまうような気がするんだ。
それでも、この触れ合っている指先から心が伝わっていけばいい。俺の弱さをお前が裁いてくれればいい。けれど何から伝えたらいいのかわからない。
愛している。
どこにも行くな。
俺の傍にいろ。
お前を守ってみせる。
そんなありふれた陳腐な台詞じゃ駄目なんだ。
こんな不安とお前への渇望は言葉じゃ表せないんだ。
もどかしい、この胸の痛み。
お前に出会ってから知ったこの痛み。
それすらも伝えられない。



お前の言葉に答える術を失った俺は、ただお前の手をきつく握ることしかできずに、ただ、お前の手を温めている。



        ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆