●暗黙の了解●



裏の仕事を終え、冷たい夜気にぶるりと身体を震わせながら、ふと目の前のアパートを見上げれば、

カーテン越しに、ほのとしたリビングの明かりが洩れていて。
あぁ、また香のヤツ……と、小さくため息をこぼした。



冷たい夜気から身を守るように分厚い毛布に包まり、ソファで丸くなって寝る香。
長い付き合い、ただの飲み歩きなら、仕方のないことと、
適当に一人きりの時間を潰し、自分の部屋で先に休むようになっていたのだが。
どんな勘を働かせるのか、それとは告げないままに出掛けた裏の仕事の時は、
相も変わらず、リビングのソファが彼女の定位置だった。



未だ俺一人で抱え込む裏の仕事。
そう……何があろうと、香の手を血で染めるワケにはいかなくて。
未だ全てを話せずにいる、裏(コロシ)の仕事。
そのクセ、互いにその真実(本当のコト)には触れないままに、香は女の第六感とか言うヤツで、
それとなく、裏の仕事に出掛ける俺の"気"を読むようになったらしい。
長い付き合いの成果というか、俺のパートナーとしての成長というか…ったく、…どんなモンだかなぁ。



そして今宵、血の臭いを纏わせて帰宅した俺の前に、香がソファでおだやかな寝息をたてている。
あまりに無防備で、殺伐としたこんな世界とは、まるで縁のないような、無垢なる寝顔。
そんな幼げな表情に、ふ……と微笑み。
そしてまた、こんなキレイなヤツを、このまま俺なんかの傍に置いていいものだろうか……と、
結果の出ない、いつもの逡巡が始まりかけて。
でもさすがにこんな日は、そのまま暗い思考の渦に飲まれたくはないとばかりに、
嫌な思いを余所へやろうと、ぶるりと頭を振って。
やわらかな茶色のくせ毛に、そっと指を絡めさせた。



このところの寒さに根負けしたのか、毛布にキッチリと包まる香の姿はまるで蓑虫。
いつもは魅力的な赤い唇がどこか青ざめ、
その柳眉が心なしか辛そうに寄せられているのを見て、チクリと胸が痛んだ。
そっと触れた頬のあまりの冷たさに驚いて、
「まったく……そんなに風邪ひきたいのか、このバカ……」と呟いて。
そのクセ、我が身を呈し、こうして俺の帰りを待ち続けてくれていた香に、どうしようもない愛しさが募る。
それでも、いくら当のお相手が夢の国を旅行中とはいえ、それと本心を口にするのが気恥ずかしくて。
「少しは自分の身体のコト、考えろって……」
と、ブツブツと他愛のない文句を言いながら、彼女の部屋まで運んでやった。



ベッドに横たえ、毛布に厚手の布団とを掛けてやれば、
無意識の内にもそのぬくみを感じたのか、寒さに強張っていた身体から、ふぅと力が抜けて。
その厳しくも切なげな顔に、やわらかな笑みが浮かんだ。



勝ち気で意地っ張りで、我慢強くて。
そのクセ、根っこのトコロはひどく脆くて、壊れそうに儚くて……泣き虫で。
そんな健気な香に、常日頃、胸に押さえ込んでいた言葉に出来ない感情が。
その、堅固を誇っていた厚く頑丈なる砦を乗り越えて、どぅと溢れ出てくる気配を感じた。



その感情に背を押され、つ……と、己の無骨な指でその唇をなぞれば。
思わぬやわらかさにゾクリとし、このやわらかさを、このぬくみを、もっと直に感じたい……と、
その顔に頬寄せようとした、その瞬間。
ふいに誰かの刺すような視線を感じて目をあげれば、
そこには、今も変わることなくおだやかに微笑む、かつての相棒の姿。



「…………………」
カーテンの隙間から漏れいずる月明りのもと、
あの頃と変わらずに、やわらかく穏やかに微笑んでいるように見える、その笑顔。
しかし、己にやましいコトがあるせいか、その笑顔と対峙して、つ……と、口元が引き攣った。



「……なぁ……いい加減、そろそろ限界なんだけど………?」
と、肩をすくめ、らしくもない弱気な本音を吐いてみれば。
写真の中のヤツは楽しそうに……少し意地悪そうに、笑ったように見えた。



預かりものだと……妹的な存在だと思っていた胸の内に、言葉にならない感情が芽生えたあの頃は。
彼女の後ろに、常にヤツの顔がチラついて……
その度に、醜く汚い、後ろめたい己の感情を押し込めてきた。
歯を食いしばり、堰を切ったように溢れ出ようとする感情を、グッと飲み込む。
それは回を重ねる毎に苦さを増し、百戦練磨を誇った俺でも……
向かうところ敵無しと恐れられた、この俺でも。
どうにも御免被りたいシロモノだった。



あぁ、さすがの俺も、もう限界。
コイツには、イチから百まで負けっぱなし。
あまりに無防備なコイツの前では、今まで培って来た諸々が、何ひとつ役に立ちゃしないんだから……
まったく、今までにない強敵だ。
だからその魅力に白旗を挙げるのは、もう時間の問題。
そう……情け無い話だが、それはもう、そう遠くはない未来のコトだろう。



あぁ、槇ちゃん……それでも俺を恨むんじゃないぜ。
そいつは筋違いってぇモンだ。
香を俺なぞに託して、勝手に一人、先に逝っちまったのは、外ならぬお前なんだから。
そう、俺たち二人を出会わせたのは、外ならぬお前なんだから。
だから潔く……諦めろ。



そんな言い訳めいた視線をくれれば、「仕方ない、か……」と、写真の中のヤツが静かに笑う。
その笑顔を了承とばかりに、ニヤリと苦笑した。
でも天然記念物的な香相手じゃ、すぐにどうこう……ってワケにもいかんしな。
まぁ、機会を見ながら、おいおい……な………?



くすりと笑い、それでもヤツの目の前、あまりにあからさまには、まださすがに後ろめたくて。
その写真立をコトリと伏せて、まずは手付ってトコで……と、白くやわらかな頬にそっと唇を落とした。




END   2008.2.5