●我慢くらべ●



「…じゃぁ、ちょっと出てくるぞ…?」
「…………」



リビングの扉を開け、ソファ座る香に声をかけるものの。
期待した返事はおろか、ハンマーすら返ってこなかった。
「……香?」
「…………」
「出かけてくる…ぞ?」
「…………」
膝に置かれた雑誌をパラリとめくる音と、テーブルの上に置かれたスナック菓子をポリポリと食べる音だけが、
静かなリビングにやけに響いている。

視線すら合わせず、とことん俺を無視する香。
どうやらまだ、昼間の喧嘩を根に持っているらしかった。



俺のことなど、爪の先ほども気にしちゃいないという素振りのクセに。
その実、その目も耳も指先も、髪の一筋に至るまで。
身体の全てに神経を張り詰めて、次に出る俺の言葉と行動とを待ち構えているのが見え見えだった。
はぁぁぁ……。
静けさを破るような俺の深いため息に、香の肩がピクンと揺れる。
それでも視線は、雑誌から離そうとはしない。
まったく……頑固なヤツだ。



大きなストライドでソファに近づき、香と背中合わせするようにその背もたれに腰掛ける。
「お前……さ」
「…………」
「お前……昼間のコト、まだ怒ってるワケ?」
「…………」
「俺の夜遊び飲み歩きが情報収集を兼ねてる…っての、お前も知ってんだろーが…」
「…………」
二度目のため息と共に、これ以上香の機嫌を損ねないようにと言葉を選んで語りかけるものの。
それでも彼女の唇は、時折スナック菓子を放り込む以外は固く引き結ばれ、何一つ語ろうとはしない。
ポリポリ、パリパリという音だけが、リビングにこだまのように響く。
おいおい、まだ無視する気かよ…。



そうこうしてる間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。
どうしたもんかな…とため息混じりに時計を見れば、その気配を察した香が、ようやく口を開いた。
「そんなに時間が気になるんなら……サッサと出かけたらどう…?」
ようやく返された言葉は、そのひとことだけ。
しかも全ての感情を押し殺したような…あまりに暗く低い声に驚いてソファに向き直り、背もたれに肘を着いて香の顔を覗きこむ。
まるで親の仇を見据えるかのように雑誌のページを見つめ。
そして潤んだ瞳の端には、大きな涙の粒がぷっくりと、今にも零れ落ちそうなほどになっていた。
あぁーあ……こんなになるまで我慢しやがって…。
普段はその素直すぎる感情の赴くままに、怒ればすぐさまハンマーを振りかざしてくるクセに。
いったんその怒りがピークに達すれば、とたん、だんまりを決め込んで、まるで貝のように口を閉ざしてしまう香だった。



いつに無い深夜の飲み歩き……それも、毎日のように香水と口紅の痕を手土産にして帰ってくるともなれば。
さすがの香も、怒りの限界だったのだろう。
それもこれも、香に内緒で請けた冴子からの仕事のせい……なんて素直に白状できたら、どんなにか楽だろうと思う。
しかし、そうはいかないのが、これまた困ったトコロなわけで…。
はぁぁぁ………。
この日、何度目かのため息をついた。



「お前…いいかげんにしろよな?文句でも何でも、腹に溜め込むなよ。
言いたいことがあるならハッキリ言えって。素直でない女は可愛くねーぞ?」

心で思うことと口を吐く言葉がいつも異なる、ひねくれ者の俺。
そんな自分に嫌気がさしながら、苛立たしげに頭をガシガシとかいた。
「……の、よ……」
「……んぁ?」



「そんなの……私だってわかってるわよ。冴子さんからの仕事がらみで、毎晩遅くまで出かけてるのだって知ってるわよ。
だから……だから今日は、文句を言わないで送り出してあげようって思って…。
でも…でも私、素直に“いってらっしゃい”なんて言えないから。だから何も言わないで黙ってようって決めたのに…」
「お前……」
「それなのに…それなのに、何よ、リョウったら。私が必死になってだんまりを決めてたのに。
怒らないように、文句を言わないように頑張っていたのに。

そんな人の気も知らないで、どうしてそんな意地悪するのよ。もうっ……リョウのバカっっっ!!!」



じっと堪えていたせいか、一息にその思いの丈を喋り尽くしたせいか。
大きく肩で息をして、その瞳からはとうとう大粒の涙があとからあとから零れ落ちてきた。
そんな顔を見られたくないのか、恥ずかしいからなのか。
香はそっぽを歩向いてうつむいて、ポリポリ、カリカリ。
次から次へと、スナック菓子を口に放り込む。

そっか……バレちまってたのか……。
いったいいつの間に、こんなに勘が鋭くなったんだよ、コイツ…。
と、自分の不甲斐なさを棚に上げて苦笑する。
そして自分を殺してまでも俺のするコトを黙って見守っていた香に、言いようの無い愛おしさがこみ上げてきた。



ポリポリ、カリカリ、ポリポリ、カリカリ……。
気まずさからか恥ずかしさからか、香は口を利くまいと、口いっぱいにスナック菓子を放り込む。
「おい……お前はシマリスかっつーの……」
苦笑と共にそんな声をかければ、「なっ…何ですってっっっ!!!」と怒りの形相で振り返る。
しかしその目は涙で赤く染まり、形のいい眉は切なそうに歪められて。
あぁ……またコイツにこんな顔させちまった……と、胸が痛んだ。



赤く上気した頬は怒りのせいか、山のようなスナック菓子が入っているせいか、子供のようにまんまるにふくらんでいて。
食べかけていたポッキーの先が、涙で濡れた唇の先からちょこんと、その顔を覗かせている。
俺はそのまま、ソファの背もたれ越しに香の頭をかき抱いて、顔を近づけて。
赤い唇の先から飛び出していたポッキーを口に含んで、パキン……と折った。



「………っっっ/////」
唇の先に、温かく柔らかな存在を微かに感じて香の頭から手を離せば。
あまりに突然のことに、大きな瞳を飛び出しそうなほど見開く香の姿。
そして今、自分の身に起きたことを慌てて反芻しているらしい。
「……バーカ。やせ我慢なんかしないで、言いたいことがあるならハッキリ言えっつーの」
「……リョ……」
残ったポッキーをポロリと落として口を開くものの、言葉にならず、ただただうろたえるばかりの香が可愛らしい。
俺はクルリと向きを変え、そんな香の視線を背中に感じながらリビングを出ようと、身体半分を扉の向こうに差し入れた。
そしてふと思い立ったように足を止め、身体はそのままに、視線だけをチラと香にくれる。



「今日……」
「……えっ/////」
まだ上気したままのふっくらした頬が、ピクンと反応する。
「今日当たり…カタ、つきそうだから。だから……早く帰る、ぞ……」
「……う、うんっっっ/////」
赤い顔をさらに赤く染めて。
そして花がほころぶようにふわりと柔らかな笑みを浮かべたその顔は、本当に嬉しそうだった。
その笑顔に俺も思わず微笑んで、そして妙にこっ恥ずかしくなって。
肩越しに片手を振って扉を閉めた。




らしくも無い……とは思うものの。
香から小言もハンマーも貰えないってのは、結構身に堪えるもんだ。
ましてや無視ってのは、問題外だろう。
「ふ……ん、惚れた弱み…ってヤツ?」
自分のセリフに思わず苦笑しながら、今日は何が何でもカタをつけてやらねばと、組んだ両手の指をバキリと鳴らして。
最近やけに冷たくなってきた夜風の吹きすさぶ街中へと、足を踏み入れた。




END    2005.10.15