●朧月夜●


「槇さん、今晩ちょいと一杯……花見酒なんて、いかがです?」

「……いや、俺は……」
同僚である佐々木のちょっと杯を傾ける仕草に、やんわりと断りの言葉を口に仕掛けた時。
少し離れた席に座り、一心に書類に目を通す彼女の声が響いた。



「ダメよ、佐々木くん。そんな夜遊びの誘いなんて。
槇村には、高校生になる可愛い妹さんが家で待ってるんだから……早く帰してあげなさい」

「……いや、俺は……」
そう言い掛けた俺に、目を通していた書類からチラとも視線を外すことなく、続くひとこと。
「妹さん、風邪なんでしょう?早く帰ってあげたら?」
香を気づかう、俺を気遣う優しい言葉であるはずなのに。
その口調のあまりの冷たさに、佐々木も口元をひきつらせながら、
「そ、それじゃぁ、お先っ!!」と、まるで逃げるように去って行った。




佐々木が帰り、しんと静まる室内に取り残されるカタチとなった、俺と冴子。
「……えーっと……キミはまだ、帰らないのかい?」
「今日中にコレに目を通しておきたいのよ。お先にどうぞ?」
またもや書類から目を離すことなく、返される言葉。
しかしそのわざとらしい態度に、彼女に聞えないように、小さなため息をこぼした。
………まずいな、完璧に怒ってる………



この大きなヤマが片付いたら、久しぶりにゆっくりと二人で飲もう
……そう約束した数日後の、事件解決の日に。
あろうことか、日頃は風邪ひとつ引きやしない元気娘の香が、風邪を引いて熱を出した。
いつにない容態に、約束はあえなくキャンセル。
「いつも元気な妹さんなんでしょ?心配よね。早く帰ってあげて?」
そう言ってはくれたものの、内心はやはり、心穏やかではなかったらしく。
仕事で最低限必要なこと意外は、徹底的に俺と関わらないようにしているのが明らかだった。



「………なぁ……」
「……妹さんが待ってるわよ?早く帰ったら?」
「………………」



取り付く島も無いというのはこういうコトか……と、何やら肩のあたりが重くなる。
香の風邪はもう大丈夫なんだが……というコトすら聞き入れてくれそうに無い態度に、
再度大きなため息をついて。

「じゃぁ、お先……」と、部屋を後にする。
視界の端に入った彼女の肩が、やけに小さく……そして、細く見えた。



階段へと続く薄暗い廊下を、何とはなしに歩みを進める。
「まいったなぁ………」と、思わず本音が洩れた。
何かと気の強い冴子が、決断力の遅い俺にイラつくのはいつものこと。
とはいえここまで機嫌を損ねるのも、それはまた、かなり珍しいことなワケで。
何かいい案が浮かばないかと眼鏡を外し、
特に曇っているというわけでもないのに、ハンカチでそれを拭う。




……と、眼鏡を掛け直したその視界に、ふいに入ってきたのは……風に舞う、薄紅色の桜の花びら。
署の脇にデンと構えるその桜の大木は、どこよりもこの廊下からこの眺めが一番で。
我々警察官の象徴とも言える花が警察署の脇に植えられているのは……
その散り際の潔さを心に刻め、とでも言うことだろうか。

しかし、今は盛りと散り急ぐ花びらが、緩やかな風にはらはらと舞い散る姿は。
その花影に、淡く輪郭をぼかした月をいただいた姿は。
どこか儚げで、この上なく女性的で……色めいていた。



ふと気がつけば、今日は満月。
いつもは煩いくらいケバケバしいネオンに紛れてチラチラと見える数少ない星々も、
今宵は美しく儚げな輝きをもつ満月に霞み、姿を消していた。

ネオンと喧騒とに塗りつくされた眠らないこの街の夜を、
今宵の満月は柔らかな真珠色の輝きで包み込み。

日頃刺々しいまでのこの街の景色を、今日だけはほのとした、優しいそれに見せてくれていた。
高層ビルの、あまたの窓ガラスに。
酒とタバコと、厚い紅とに塗り込められた、澱んだ人々の表情(かお)とに。
その気高き光は、誰を分け隔てること無く降り注ぎ。
日頃、素の自分さえも忘れてしまった者たちに、ふとした心安らぐ瞬間(とき)を与えていた。



……こんな桜は、アイツとこそ見たいものだな……
潔さと完全なる美。
そして、儚げで艶かしくて……。
その姿はまさしく、普段仕事の鬼という名の陰に隠された、ありのままの彼女の姿……。
だからこそ、こんな桜を一人で見ていたくは無かった。
真珠色の輝きを放ち、花吹雪に隠されるような、朧に霞む月を見上げて。
ふっと笑って踵を返して、再び部署に戻った。



「……あ、ら………?」
部署の扉に手を掛けようとしたその瞬間、同じ速度で手を掛けていた扉がスッと開く。
そして先程までおかんむりだった彼女が、驚いたような顔で立っていた。



「……なぁに?帰ったんじゃなかったの?」
「いや……桜が、さ。月が……あまりに綺麗だったから、ちょっと見惚れてた」
「……妹さんが待ってるんでしょ?早く帰ってあげなさいよ」
呆れたようにため息をつきつつ、足早に廊下へと足を進める。
「……待てよ。なぁ…これから飲みに行かないか?そのぉ……こないだのお詫び…ってコトで……」
特にこれといったヤマも無く、遠く離れた宿直室から洩れる灯り以外は、
珍しく静まった捜査一課のフロア。

調査で残業などといった無粋な輩もいない、人気の無い道をいいコトに。
普段、署内では言えないような誘い文句が、自分でも驚くほどスラスラと口を突いた。



「何言ってるの。妹さんが、風邪なんで……」
「香の風邪なら、とうに治ったよ。今はもう、ピンピンしてる」
さっきから取り付く島も無く、まくし立てられてきたセリフに、ようやく反撃できた。
「……………え?」
驚いて振りける彼女に苦笑しながら、先程から言い掛けてはストップを
余儀なくいされていた言葉を、ゆっくりと紡いだ。




「健康だけがとりえって言うか……もともと、身体は丈夫何だよ。
寝付いたって言っても、たった一日だけだったし……」

「えっとぉ…………それじゃぁ、今、は……」
「明日から試験らしくってさ。今日は友達の家で勉強会で…遅くなるそうだ」
「……………」
普段クールで、あまり感情を表に出さず、時に仕事の鬼とまで陰口を叩かれた彼女が、
大きく目を見開いて、ぽかんとした顔をした。




「……だって……だってあなた、そんなコト、ひとことも……」
「何度も言い掛けたのに、その度に聞く耳持たずだったのは君だろ?」
「そっ、それはそうだけど、でも……っ」
負けず嫌いの性格からか、すぐに食って掛かろうとする彼女に苦笑してホールドアップ。
「……わかったわかった、もう、よそう。また喧嘩が始まるなんて、御免だよ」
「……そうね。ごめんなさい」
しゅんとした彼女の顔が、日頃仕事の鬼と称される彼女と同一人物だなんて、誰も思わないだろう。
彼女のこんな一面を知っているヤツは、そういない。
そんなある意味、彼女にとって“特別な存在”である自分に、少しだけ口元が緩んだ。



「……それで?仲直りの印として、どこで飲もうか」
「そうね……こないだ行き損なった店はどう?今日ならウイークデイだし、
そう混んではないと思うけど?」

「………了解」
互いに見詰め合って、微笑んで。
ようやくいつもの自分を取り戻せた俺と彼女。
周囲に人目が無いのをいいコトに、俺の腕にスルリと自分のそれを絡めてきた。



「おい……こんなトコ、誰かに見られたら……」
「大丈夫。誰も見ちゃいないわよ。それに……久しぶりなんですもの?こんなコト」
「ん……?あぁ、まぁ……な」
「ふふ……。いつもいつも、“妹が…”ってセリフに泣かされてきたんですからね。
今日は大丈夫なんでしょ?久しぶりに、ゆっくりと飲みたいわ」

「あぁ………そうだな」
「まったくねー…。恋人に“妹”なんて門限があるなんて、思っても見なかったわよ」
「………面目無い」



先程のように、返す言葉も見つからないほどの鋭い攻撃。
しかし、それにはもう、先程のような冷たさは無くて。
意気揚々と言葉を紡ぐ彼女と、渋々という体で答えを返す俺。
その姿はあまりに惨めと言うより、他、無いだろう。
……さしずめ俺は、敏腕女刑事に心まで捕らえられた、哀れな男ってトコか……?



そんな自分の思いつきに苦笑した俺を、「……なぁに?一人で笑っちゃって」と、彼女が問う。
「いや……何でもないよ。さぁ、行こうか」
「……えぇ」
舞い散る桜と朧なる月に誘われるかのように、互いに腕を絡め合い、見つめ合い。
いつもより数段淡く、優しげな光を映し出すネオン街に、そっと足を進めた。




END    2006.4.12