●薄氷(うすらい)●



裏の仕事を終えての帰り道。

殊更に冷え込んだ朝。
どこぞで飲んだくれて、そのままつぶれてました……
なんて言い訳が、とんと通じない季節になっちまったな。
もっとも香のヤツも、俺がこっそりと裏の仕事に出掛けてるのに、うすうす気づいてるらしいが。
それでもまだ、すべてを言い出せないのは……ひとえに、俺の醜いエゴってヤツか。



アパートの前まで来て、ついとリビングを見上げれば。
分厚いカーテンがきっちりと閉められて、その中の様子は窺い知れない。
アイツ……また寝ないで起きてたのかな。
それとも寒さにゃ勝てなくて、さすがに今日はおとなしく寝たか……?



煩い小言や、恨めしそうな視線で見つめられるのが忍びなくて。
出来れば後者であって欲しい……そう、思うくせに。
リビングのソファに、子猫のように毛布に包まった香の姿が見えないことに
一抹の淋しさを感じたりもするのだから………まったく、タチが悪い。



ふと見れば、足元には薄氷。
どこぞのオバちゃんが早朝から植木に撒いた水なのかどうかは知らないが、
道端に小さな水たまりが出来ていて。
それがこの朝の寒さのせいで、表面がうっすらと凍っていた。



氷の上をつま先でツイと突いてみれば、それは意外にも厚く張り詰めていて。
ピンッ……という小気味いい音を響かせた。
そのくせ端の方はかなり薄く、ちょっと踏み入れただけでピシっという音とともに、
すぐさま複雑な幾何学模様のようなヒビが入る。
「薄氷、か……」



厚く張り詰めた氷とはいえ、その端々は薄く、まるでガラス細工のように脆くて壊れやすい。
香への想いを封じ込めた心の奥底に、しっかりと張らせた厚い厚い氷の扉。
ポーカーフェイスという名の鍵で、固く固く閉ざした扉。
最近それが、とみに薄くなってきたようで。
その頑丈を誇っていたはずの鍵が、少しずつ緩くなってきたようで。
ふとした瞬間……その分厚い扉の端から、隠し通してきた想いの丈が、
激しい波のように溢れ出てしまいそうになる。



それはたとえば、香がふとした時に見せる表情(かお)だったり、何気なく見せる仕草だったり。
今までは反応しなかったそれらが、妙に目に心に、鮮やかにその姿を伝える。
もういいかげん……いや、まだ、もう少し……と、常に逡巡する心。
自分自身の“それ”なのに、どうにもこうにも持て余してしまう。



「俺の氷も、春には解けちまう……って、か……?」
何年も何年も、永久凍土を自負していたはずの、心の中の厚くて固い氷の扉。
その扉を開けるものが何なのか、そして誰なのか……。
その答えを知っているようであり、まだまだ認めたくないようであり……。
そんな自分に、ふっと苦笑して。
ヒビの入った氷に踵を返す。



そう……これからが、寒さの本番。
だからもう少しだけ……いま少しだけ。
この想いを、冷たい氷の扉の向こうに閉じ込めておこう。
暖かな季節(とき)が来て、春が来て。
その氷が自然に解ける、その時までは……。
今はまだ、冬。 




END    2006.12.17